自分探しはジツは自国探し。自国探しは世界知って比較、と。

        2月6日産経抄


小泉純一郎首相が靖国神社参拝をやめないかぎり日本は世界で孤立する、と誰かが言っていた。

ばかげたことを…と思ってはいたが、米国の大学などがBBC(英放送協会)の依頼で行った33カ国4万人に対する世論調査によると、世界に好影響を与えていると一番に評価された国は日本だった。

▼先週末に発表されたこの調査では、31の国で日本の影響力について肯定的評価が否定的評価を上回り、うち20カ国で肯定派が過半数を占めた。回答国全体でも日本肯定派の平均は55%、否定派は18%で、孤立どころか相当な人気である。

日本否定派が半数を超えた2カ国が中国と韓国だったのはいわずもがなか。

もう、ケッと唾吐くかケッケッケと薄ら笑うか程度の自然なw嫌チュウ・嫌チョン反応

留意すべきなのは日本肯定派が一番多かったのがインドネシア(85%)、次いでフィリピン(79%)と、ともに東南アジアの国だったことだろう。

▼中国は靖国参拝非難の際に「アジア人民の感情を傷つけた」といった常套句を使うが、そういうプロパガンダは情報統制下の国内ではともかく国際社会ではもはや通用しないということだ。

東南アジアの国々にとっては、目の前にある中国の覇権主義の脅威の方が切実と映る。

▼日本への高い評価の背景には、政府開発援助も含んだ経済的貢献度の高さもあろう。だがそれ以上に、巨大市場を背景にした経済的膨張に加え、軍事力増強を進める中国に対抗し、ものをいえる力を備える国はアジアでは日本をおいてない、という期待もあるはずだ。

▼友好という建前で大国の横暴に目をつぶることでは、世界の平和と安定は得られない。人気者の座にこだわるわけではないが、せっかくうれしい結果が出たのだから、政府も国民も期待に応えるべく毅然とした姿勢を貫かねばならない。

まずこれ、だけどさ。

   ∧_∧
   (#@Д@)  ∬   産経はアジ屋人民の感情を傷つけた!
__. と  朝 ,っ━ ∀
    .ヽ./~ ),  | ┷┳━
 ̄ ̄ ̄ .し'J ̄ ̄|   ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  .┻
    ↑
  アジ屋人民

※アジ 1
アジテーションの略。

アジテーション 3 [agitation]
(1)そそのかすこと。扇動。
(2)社会運動で、演説などによって大衆の感情や情緒に訴え、大衆の無定形な不満を行動に組織すること。アジ

※アジ屋=赤匪伝聞=朝日新聞

そういう既に勝負ついた下らないこと抜いたw、実はこうなんだてな現状認識はいいんだけど、だからといって安易に「期待に応えましょう」てのもなぁ。一分は憧れからかもだろが九分方はそれぞれ自国本意国益重視での評価と期待なんだろしさぁ。

バンドワゴニング(追随しての日和見)とバランシング(対抗しての均衡)、それにバック・パッシング(責任転嫁)ねぇ。

世間は二枚舌・二枚腰だろからさぁ、てきとーにおだてられてすぐにホイホイでもなぁ…ってわけネ。

バランシングORバンドワゴニング


この辺の用語はちゃんと理解しておかないと非道いことになりますね。

前者「バランシング」(→バカポチ保守を煽ってアメリカが中国に日本をぶつける)、後者「バンドワゴニング」(→東アジア共同体で日中連携)という風に読むのですかね。

日本がアメリカにバックパッシングできないということは、日本がバランシングする(覇権国アメリカから見れば、日本にバックパッシングさせると言うことになるんじゃないかな?)

バッグパッシングについて


…「他国に対峙させ、場合によっては打ち負かす仕事をやらせる戦略」なのである。

もっと具体的にいえば、これは、どこかの地域に新たに"脅威"(threat)/"侵略国"(aggressor)となる国などが発生してきて、今まで国家間に存在していた勢力均衡(バランス・オブ・パワー)をくずすような動きになりそうになったとき、それを防ぐために使われる戦略なのである。

具体的な例で考えると、中国に対して、今アメリカが行っている戦略がまさにそれである。

中国というのはご存知の通り、北東アジアにおいて経済的・軍事的に発展の目覚しい国である。しかもあまりのその発展のスピードが速いために、今まで北東アジアにあった勢力バランスを崩しそうな勢いである。これは第二次世界大戦後からこの地域で秩序を守ってきたという自負のあるアメリカとしては、許しがたいことなのである。

しかも中国は、歴史的にもこの地域の覇権を確立した時期もあったし、いまだに世界の中心である(中華というのは世界の中心で花が咲き誇っている場所という意味)という思想をもっている。要するに国民感情的にも、北東アジアを制覇したいという欲求を実行に移すことが許される国家なのである。

ではこのような中国に対してアメリカはどうするのかというと、自らノコノコ出かけていって直接的に対峙するというはアホらしい。もし何かがあった場合は自国の兵士が血を流すことになるし、そもそもアメリカの戦略家には自分たちが島国(シーパワー)であるという意識があるので、できたらあまりアジア大陸には深入りしたくないという意識があるのだ。ベトナム戦争などの教訓もある。

そこでどうするのかというと、その中国の周辺部の国々に、責任を肩代わりさせて、その脅威に対抗させるのである。

こうすれば、中国は周辺国に意識を向けていることになり、アメリカとしても周囲の国々がケンカしている間に自分の国力は温存できる。うまいこといけばその間でつぶし合いの戦争になって、中国の国力が激減して脅威の度合いが落ちるかもしれないし、相対的にアメリカの国力があがるのだ。まさに魅力的な戦略である。これが「バック・パッシング」なのである。

この場合、アメリカは「バック・パッサー」(buck-passer)といって、責任を押し付ける側になる。日本や韓国、台湾など、アメリカから責任を押し付けられて中国と対向させられる側は、それとは反対に「バック・キャッチャー」(buck-catcher)と呼ばれるのだ。

日本にとって中国にぶつけられるのは迷惑千万なことなのだが、ご主人様のアメリカがけしかけるのでなんとも仕方がない。イラク問題でアジアのほうまで手の回らないアメリカは、中国の脅威を封じ込めるためには、周辺の国々(特に中国と対峙できるだけの力をもっていそうな国)に中国と険悪な雰囲気にさせておいて、いざとなれば直接戦争をさせることもいとわないのである。…

まぁリアルにゃそうだが、今まで60年以上も日本がアメリカに相当責任転嫁してきたことも事実なんだし、そのせいで自国民を自国内から拉致されても実際何にもできないというテイタラクに陥ってもいるわけだしねぇ。


実はアメリカほどではないが、日本や他の国々も、「バック・パッシング」を昔から行っている。

わかりやすい例では、中国や北朝鮮に対してアメリカをけしかけていた戦後から冷戦終了までの時期に、ある意味で日本は"平和憲法"を盾にとって「バック・パッシング」を行っていたといえる。アメリカに対して自国の安全保障問題の責任を押し付けて肩代わりしてもらっていたのだ

だからそこいらはお互い様なんであって、今はせいぜい「日米同盟に新しい意味と活力を与えて、中国とのあいだに均衡を保ち、中国を封じ込めるための提携の核となるべき…」との決意くらいは、ささぁ〜っとすべきでしょねぇ。具体的には、お下がり空母買って非核三原則のうち「持ち込ませず」破棄とかさぁ。

で、守るべきもの探し(「日本」再認識ってよりはっきり初体験だよんw)なんだろな。

かつて19歳とかせいぜい20代後半であれだけの決意もった先人の思考探求の「靖国神社参拝」に、皇室典範改正問題から初めて具体的に天皇って何ぃ?とか考える機会持てたりしてさ。

その点、閣下は久しぶりにいい感じじゃん。



◆【日本よ】石原慎太郎 祭司たる天皇

 最近になってにわかに天皇皇位相続についての議論がかしましいが、この問題を論ずる前に国民にとってそも天皇なるものはいかなるものなのかを考えなおす必要があるような気がする。

 敗戦後から今日に至るまでの時代において、日本国民にとっての天皇の意味を示したものは主に憲法だろうが、その第一条に『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』とある。

まったく今回の“騒ぎ”が興るまでは、まったくもってお茶濁し程度の議論てか、てきとーなマトメで過ごしてきたわけでぇー。

またそもそもおおもとの「主権」てな言葉自体が、

「…きわめて不明確な概念で、論者によってさまざまな意味が盛りこまれるため、統一的な定義を下すことは困難であるが、一般的には、国家の最高独立性を表す概念と理解される。

概念としての有用性を疑い、あるいは、この概念の有害性を指摘することによって、この概念の使用を控えるべきだと唱える論者もいる。…」

という有様みたいでしてねぇ。


※in・ter-
━━ pref. 「の間の;相互の[に]」の意.

※na・tion
━━ n. 国民, 国家; 民族

※in・ter・na・tion・al
━━ a. 国際(間)の, 国際的な; 万国向きの.

国家間の=国際的な

法学部でさえ国家論まともに論じられたことあったっけぇ?w

「近代国家」として認められている「国(nation)同士の関係(inter)
は、一種の無秩序状態にある」現実からは対外的にすべて交渉・約束がなされるわけで、そしてその交渉の主体には備っていると論理的に前提しなければならない対外独立性と、それぞれの国の内部秩序維持のためにこれも備わっていると前提しなければならない統治権と、この作用は似ているが向かう方向が正反対のパワーを、同じ言葉で示そうとするから無理なんだろかなぁ。


この起草者が日本の歴史と文化をどれほど確かに踏まえてこの文を綴ったのかは定かではないが、象徴というわかるようでわからぬ言葉にこめられたもの、またこめなくてはならぬものについて、今の日本という開かれた市民社会の中でもう一度確かめなおす必要があるのではなかろうか。

 憲法に『国民統合の象徴』と唱われている限り、天皇制の存在は日本という国家社会にとってのいわばアプリオリ(先天的)なのだろうが、ならば天皇は何ゆえに国民統合のための何の象徴なのか、なぜに象徴足り得るのかを。

伝統(形の継続性)とか正統性(万世一系)とか、かな。

憲法には思想と信教の自由が保証されているが、国民の中には共産党やその共鳴者のように天皇制そのものを否定してかかる者もいようがそれはさておいても、個々人の信条に強く関わる信教に関しての自由が保証されている限り、憲法の建て前からすれば天皇の存在は国民個々人の信仰の違いとは矛盾してはならない筈である。


ずいぶん雑だなぁ。

マホちゅわんはいざ知らず、キリストは「カエサル(皇帝)のものはカエサルに、神のものは神にかえせ」と言ってんじゃん。

内村鑑三教育勅語不敬事件だって、内心の信仰と国家の権威への敬意表現とはキチンと判別しませぅねぇとか大反省してたんじゃなかったっけぇ??


しかしながら私は天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。

人類の歴史の中に同じものを探せば、古代エジプトのファラオに例を見ようが、現今の世界には他に例がない。

さらにいえば天皇神道の最高の祭司に他ならない。ならば神道もまた宗教の一つではないかという反論があろうが、私には神道は宗教というよりも日本人の心情、感性を表象する日本独特の象徴的なと思われる。

宗教と宗派または創唱宗教自然宗教とをごっちゃにしてません?

またいきなり聞いたこともない「術」てな言葉出されてもねぇ。忍者の棟梁じゃねぇしぃ。それとも「すべ」って読むのかな? だよね。

※すべ 1 2 【▽術】
手段。方法。
「なす―を知らない」「もはや施す―がない」

※すべ 【▽皇】
(接頭)
「すめ」に同じ。
「―神」

…なんて別にカケテなんてないんだろが。


その根源は日本という変化の激しい特有の風土にまみえてきた古代人が、自然への畏怖と敬意と賛仰をこめて編み出した、万物に霊性を認めるアニミズム(精霊崇拝)の上に成り立ったシャーマニズム(予言など超自然的存在との交流による宗教現象)にあった。

そうした汎神論はたとえば那智の滝御神体として祭った那智大社別宮飛滝権現神社であるとか、三輪山そのものを祭った奈良の大神(おおみわ)神社の存在に如実に表れてい、その集大成が伊勢に他なるまい。

ここいらはよく聞く事柄だね。ただしそれは原始的=遅れてるぅてな戦後価値観が付き纏っていたわけで。そこいらは?

私はかつて、熱心なカトリック教徒である曽野綾子さんが伊勢を訪れた折の感動を記した文章に強い印象を覚えた。彼女はその中で伊勢こそが日本人の感性、精神の原点だと悟ったと記していた。

それは優れた芸術家の感性を証す、宗派などという人間が後天的にものした価値観や立場を超えた、人間たちの在る風土が育みもたらした人間にとって根源的なものへの真摯で敏感な認識に他なるまい。

それぞれ(基督教・イスラム教)残酷な自然環境の結果(賜物)でしかなかった唯一神信仰で、創唱者が特定できるし教典もあるし教団があるしさ。それは「人間が後天的にものした価値観」だと。

日本の風土が培った独特の汎神論はその後伝来した、これまた他の一神教と異なり多様な聖性を許容する仏教と容易に混交融和して今日の日本人独特の、決して宗教的なものにとどまらぬ、いわば融通無碍な価値観とさらにそれに育まれた感性をもたらした。

神仏習合てなわけネ。仏教って手段作法みたいだし

 そしてそれについて、一神教がその大方を支配する今日の世界の狭量な価値観の対立と混乱を予測したのかアインシュタインやマルロオのような優れた感性の識者は、日本人の価値に関する感性こそが人類の救済に繋がるともいっている。

ここいらをどう「表現」して発信していくかでしょかね。

「日本の孤立の度がさらに高まるのは、日本文化は高度の排斥的で、広く支持される可能性のある宗教(キリスト教イスラム教)やイデオロギー自由主義共産主義)をともなわないという事実からであり、そのような宗教やイデオロギーをもたないために、他の社会にそれを伝えてその社会の人びとと文化的な関係を築くことができないのである。」(文明の衝突と21世紀の日本・サミュエル・ハンチントン P.130)

さすがにずいぶんハンチントンもトンチンカンなこと言ってらっさるかなぁと思うなぁ。現状認識では正しいんだろけど、いままで表現発信が下手っぴなダケやん。害務省だったしぃ…

そしてその感性の表象こそが神道なのだ。その限りにおいて神道は宗教の範疇を超えた日本人の価値観の表現の様式であり、民族としての自己表現の有効な一つの手立てに他ならない。

あぁ、これのほうが前述「術」よりえぇんじゃんない?

※てだて 1 【手立て】
(1)方法。対策。手段。
「救う―がない」「―を講ずる」
(2)策を弄(ろう)すること。策略。
「―する家につかはれければ/浮世草子・胸算用 3」

※てだて 手立て
a means; a measure.
・〜を講ずる take measures *1.

神道てか神主さんって、小言専門家てか価値観含めての行儀作法指南役みたいな印象だな。ま、ナマハゲの大人向けってか綺麗にしたモンみたいにさ。
モノゴコロついたときから実家では正月から始まってお祭りに結婚式も葬式も神式だしね。どぜう髭の神主さんとは接触多かったわなぁ。

そしてさらに、天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない。

よくわからんw たまにはこすいこともせにゃならん下々のかわりにばっちり道徳的生き様徹底してくれる存在なんだぁ、とかでぇぇじゃん

過去の歴史の中で天皇はさまざまな形で政治に組みこまれ利用もされてきた。武士台頭以前の時代には公家支配の核とされ、近代にいたり軍閥跋扈の時代には大元帥として軍事の統帥者とされ、太平洋戦争時には人間ながら現人神(あらひとがみ)にさえされてしまった

だぁからぁ「神」概念がちゃうんだってぇw
国家及び民族の「最高権威」、とでも言い換えたらぁ。オオキミは神にしませばとか、大昔からそうだったんでねぇのぉ?

 それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。

だよ

 私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。

あまり園遊会とかでしゃしゃり出ないでネと。
しかし現代に現実に生存されてるわけでぇ、バカンのムーダンとか支那の仙人になってぇてなこと言ってもなぁ。

戦後からこのかた皇室の存在感の在り方は、宮内庁の意向か何かは知らぬが、私にはいささかその本質からずれているような気がしてならない。

たとえば何か災害が発生したような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか。

そぉかぁ? 国民慰問ってのは大事だと思うぜぇ。

その限りで私にとって天皇が女性であろうとなかろうと関わりないことと思われる

あっちゃぁ。ホラまた閣下的短絡ぅw なに、これが言いたかったから籠って祈祷しててねてなこと言ったんでそ。ところで“その天皇”の「正統性」わぁ?

 その故にも、以前にも記したが天皇陛下には是非々々とも靖国神社にお参りしていただきたい。

それは「靖国」が決して政治問題などではなしに、あくまで日本の文化神髄の事柄なのだということを内外に示す決定的なよすがとなるに違いない。

最後の「その故にも」っても、さっぱり論理が繋がらんと思うんだけんどもなぁ。

つまり長駄文連ねて、閣下は、

(1)女性・女系天皇賛成ぇ
(2)天皇靖国神社参拝賛成ぇ

ってこと言いたかったわけネ。…当て外れたワィ。

都知事の公務が忙し過ぎなんでしょ? 月一でこれじゃぁ、もうヤンピにしといたほーがぁw

*1:to do