70周年だそうで…

この歌はいつ見ても、かっくいぃー、よなぁ。
青少年の純な感覚がねストレートに出てて、左右に係わらず、こういう心情は誰でもかつて抱いた経験あるはずで…。


青年日本の歌昭和維新の歌:改題)
作詞・作曲:三上 卓(すぐる)海軍少尉。
昭和5(1930)年5月24才の時佐世保で発表。

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うるなし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民 世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花(さくらばな)

五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

さっこんの風潮にも多々思い当たるところ、大いにありでしょ。
心情的には、まったく同感だもんね。

この歌が作られた昭和5(1930)年のあたりを「新しい歴史教科書」から。


69……中国の排日運動と協調外交の挫折

中国の排日運動
清朝の滅亡後の中国では、各地に私兵をかかえた軍閥が群雄割拠していた。孫文のあとをついだ国民党の蒋介石は、各地の軍閥と戦い国内統一をめざした。1928(昭和3)年、蒋介石は北京をおさえて新政府を樹立した。中国統一の動きは、日本が権益をもつ満洲にも到達した。こうした動きに対し、日本は、居留民保護を名目に3度にわたり山東地方に出兵した。
 中国の国内統一が進行する中で、不平等条約によって中国に権益をもつ外国勢力を排撃する動きが高まった。それは、列強の支配に中国人の民族的反発だったが、暴力によって革命を実現したソ連共産主義思想の影響も受け、過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった。

協調外交の行きづまり
政党内閣のもとで2度にわたって外務大臣をつとめた幣原喜重郎は、英米と協調して条約を守り、中国の関税自主権回復の要求を支持するなど、中国の民族感情に同情をもって対応する協調外交を推進した。
 しかし、中国の排斥運動はおさまらなかった。日本では軍部を中心に、中国に対する内政不干渉政策で対処するのはむずかしいと考える人もあらわれ、幣原外交を軟弱外交として批判する声が強くなった。

世界恐慌と高まる軍部への期待
第一次大戦【1914(大正3)〜1918(大正7)】のあと世界一の経済大国となったアメリカで、1929(昭和4)年、株価が大暴落し恐慌がおこった。不況の波は世界中におよび、世界恐慌となった。アメリカへの輸出にたよる日本経済も大きな打撃を受け、大量の失業者が発生した(昭和恐慌)。農村でもアメリカ向け生糸の輸出額が激減し、農民の生活は苦しくなった。
 1930(昭和5)年、ロンドンで海軍の補助艦の制限を問題とする国際会議が開催された(ロンドン軍縮会議)。この会議で日本に不利な協定を受け入れたとして、一部の軍人や、それに同調した野党政治家は、政府を激しく攻撃した。浜口雄幸首相は暴漢におそわれて重症を負い(のちに死亡)、退陣に負いこまれた。
 軍人が政治に直接口出しすることは、軍人勅諭で戒められていたが、軍人のあいだには、排日運動にさらされていた満洲在住の日本人の窮状と、満洲権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満が生まれていた。こうして、政府とは別に、軍の中に独自の政策を論じ実行しようとする考えをもった将校のグループが形成された。国民も、経済不況による社会不安の中で、政争に明け暮れ、問題を解決できない政党政治に失望し、しだいに軍部に期待を寄せるようになった。

そこで血気盛んな青年は、直接行動とっちゃうんだよなぁ。

        五・一五事件 (犬養首相暗殺)

1932(昭和7)年5月15日、午後5時27分、1台の自動車が永田町の首相官邸にすべり込んで来た。車から降りたのは、海軍の三上卓中尉、黒岩勇少尉、陸軍士官候補生3人である。

彼らは警護の村田巡査部長らを拳銃で脅すと日本間にいた犬養総理の前に現れた。抵抗する田中巡査の腹部に弾丸を撃ちこむと、三上が犬養に拳銃を向けた。犬養は、「あちらで話をしよう」と将校たちを食堂の隣りの15畳の日本間に案内した。

「話を聞こう」と煙草を手にした犬養に、三上は、「かつて張学良の倉庫の中から、学良が日本に送った大金の領収書が出て来たが、その中には犬養総理のものもまじっていたという。事実はどうか」と問うた

「ああ、そのことか、それならば話せばわかる」犬養がそう言ったとき、裏門から入っていた山岸宏中尉が、「問答無用、撃て!」と叫んだ。黒岩が発砲し、犬養は左頬と右こめかみに二弾を受けて倒れた。 犬養は出血の為午後11時26分死去した。三上ら青年将校18名は、その日の内に憲兵隊に自首した。

三上や山岸は井上日召血盟団の同調者であるが、その大官暗殺の名目は“昭和維新”であり、君側の奸を屠り、国民の敵たる腐敗した既成政党と財閥を倒し、新しい日本を創ることであった。

現代的には、テロなんだけどね。犯人たちに国民の共感 (100万を超える減刑嘆願書)

こういう風潮の元、18人とはいえ個々人のテロから4年後は70年前の今日、1936(昭和6)年2月26日がやってきたわけだ。
いろいろ書いたもの多いけど、やっぱりまだこんな感じ、だよねぇ。


〜 二・二六事件がわかりにくい理由 〜

・ 昭和維新」と言いながら、実は陸軍の派閥抗争だったから
・ 陸軍首脳の態度が天皇の激怒でがらっと変わったから
・ 陸軍首脳が事件の責任を右翼民間人に押し付けようとしたから
・ 事件を利用して、陸軍(統制派)が逆に勢力を伸ばしたから

その“誰でも”(語弊あるかもだが、ちょい謙虚に反芻自省すれば少なくとも若いとき多少はそう思ったことぐらいはあるでしょ)共感する心情と、その「至誠」だけに基づいてと当人は思って一旦行動しようとすると、いろいろ係わってくる、世知辛さ?w

そこいらの庶民心情は、いまでもこういうモニュメントがしっかり残ってることにも現れていたりして。        2・26事件慰霊碑
二・二六事件に関係する像・石碑が東京都渋谷区に残っている。昭和11年2月26日、皇道派将校により起こった二・二六事件の首謀者である青年将校17名の処刑場、旧陸軍刑務所敷地跡の一角に立つ観音像(昭和40年2月26日建立)がそれである。

また、同区にあるNHK日本放送協会)の西側玄関前の道路を挟んだ反対側にも石碑がある。二・二六事件で銃殺刑に処された処刑場を見下ろす形で建立されている。ちなみにその場所(処刑場)は現在のNHK日本放送協会)の101スタジオになっている。

後者は知らんが、前者は渋谷地方合同庁舎(税務署に東京法務局渋谷出張所とか入ってる)脇(西角かな?)、だよね。
        2・26事件慰霊碑地図

これは知らんかったな。
2・26事件22烈士の碑
東京麻布賢崇寺二十二烈士の碑


01.自決・歩兵大尉 野中四郎(34) 12.死刑・工兵小尉 中島莞爾(25)
02.自刃・航空兵大尉 河野壽(30) 13.死刑・砲兵小尉 安田 優(25)
03.死刑・歩兵大尉 香田清貞(34) 14.死刑・歩兵小尉 高橋太郎(24)
04.死刑・歩兵大尉 安藤輝三(32) 15.死刑・歩兵小尉 林 八郎(23)
05.死刑・歩兵中尉 栗原安秀(29) 16.死刑・(歩兵大尉) 村中孝次(34)
06.死刑・歩兵中尉 竹嶌継夫(30) 17.死刑・(一等主計) 磯部浅一(32)
07.死刑・歩兵中尉 対馬勝雄(29) 18.死刑・民間人 澁川善助(31)
08.死刑・歩兵中尉 中橋基明(30) 19.死刑・民間人 水上源一(39)
09.死刑・歩兵中尉 丹生誠忠(29) 20.死刑・民間人 北輝次郎(54)
10.死刑・歩兵中尉 坂井 直(27) 21.死刑・民間人 西田 税(36)
11.死刑・砲兵中尉 田中 勝(26) 22.死刑・歩兵中佐 相澤三郎(48)